書を捨てよ、映画館へ行こう ~遮断された空間での非日常~

つい先日、実家のある北海道へ帰省した。数日滞在した中で、映画を観たくなった。

しかし、映画館は地元にひとつしかなかった。ちょうどその映画館で、観たい作品がひとつ上映されていたので、その作品を劇場で観た。やはり、映画館で映画を観ることはいいな、と思った。

 

地方都市には、映画館がひとつあればまだいい。北海道の地方の町や村では、映画館がなく、隣接する市にある最寄りの映画館まで車で数時間ということも珍しくない。その映画館事情は、北海道のみならず、日本各地のその他の地方でも似たような状況だと聞いている。

 

映画館が減り、人々は、映画を見なくなったのか。違う。映画、ドラマ自体を観る人が減ったわけではない。観る方法が変わった。いまは、定額の動画配信サービスが群雄割拠の状態。レンタルビデオ店も、店舗でのレンタルに加え、ネットでの配信、宅配サービスなどを充実させている。映画館にいかずとも、ほとんど全ての作品を観ることが可能だ。

 

私は、しかし、映画館で映画を観ることが好きだ。東京は、大きな映画館、中規模の映画館、小さな映画館、それぞれに個性があり、上映する作品も多様で、本当にうれしい。しかし、移動する手間、チケット代もかかり、そのほかの時間的にも金銭的にも効率のいい方法で映画が観れる状況で、なぜ映画館で映画を観ることを好むのか。

 

それは、遮断された空間での非日常が好きだからだ。 2時間、3時間というまとまった時間を、照明の落ちた空間で、一人でいても、許される。なにも話さなくてもいい。むしろ、話してはいけない。携帯は電波の届かない状態になっている。ただ、スクリーンを見つめる。日常のループから抜けだして、非日常に没入する、気持ちよさ。

 

それは、温泉に行くのと似ているかもしれない。温泉で湯に浸かっている間は、まさに遮断された空間での非日常。なにも着ていない、携帯は電波の届かない状態、というか持ち込まない。一人でいてもいい。なにも話さないでそこにいても、許される。考え事をしたり、なにも考えなかったりして、ただ湯につかる。

 

日常のループの外に出て、非日常で時間をすごし、また日常のループに戻ってくるという一連の流れが好きなのだ。一度日常のループの外に出る時、戻ってきた時に、なにかがかわっているのではないか、という気がする。 実際変わっているどうかはわからない。なにも変わらず、日常は進んでいくことがほとんどだったりする。しかしこの、気がする、という感覚が映画館へと足を運ばせる。

 

日常と非日常を行き来していると、世界が広がる感じがする。 学校や仕事の帰り、寄り道をしたくなる気持ちと、映画館に行きたくなる気持ちは似ている。日常、常識、正しさ、普通、そればかりだと世界がとても小さくなっていって、息ができなくなり、押しつぶされるような気持ちになる。

 

幾千万も灯る都市の明かりが

生み出す闇に隠れた

 

これは、先日公開されたばかりの小沢健二の新曲「アルペジオ(きっと魔法のトンネルの先)」の歌いだしの部分だが、オザケンの歌い方も含めこの部分がとても好きで何回も聴いている。 明かりが闇を生み出すように、日常は非日常を生み出す。闇に隠れるように、非日常に没入するように、映画館で映画を観る。正気でいるために、狂気に触れる。 映画館に行くことは、都市の明かりが生みだす闇に隠れること。

 

映画館に行く人が減り続ければ、東京ですら、今の豊かな映画館の生態系を維持できなくなるかもしれない。それは嫌だ。

 

次は、東京にある素晴らしい映画館について、いくつか書きたいと思う。

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映画、音楽、本のことを中心に、役に立つかどうか度外視して書きたいこと書こうと思っています。サブカルなイベントもよく行くので、そのレポートみたいなことも書くかもしれません。