<作品情報>
レディプレイヤー1/ Ready Player One (2018)
監督:スティーブン・スピルバーグ
脚本:脚本アーネスト・クライン、ザック・ペン (原作:アーネストクライン著 ゲームウォーズ )
撮影:ヤヌス・カミンスキー
主演:オリビア・クック、タイ・シェリダン、ベンメンデル・ソーン、サイモン・ペグ、マーク・ライランス
2018年4月20日〜公開中
パシフィック・リム:アップライジング/ Pacific Rim: Uprising (2018)
監督:スティーブンSデナイト
脚本:スティーブンSデナイト、他四名
主演:ジョン・ボイエガ、スコット・イーストウッド、アドリア・アルホナ、ジン・ティエン、チャーリー・デイ、菊地凛子
(前作監督のギレルモ・デルトロは製作のクレジットに名を連ねている)
2018年4月13日〜公開中
「レディプレイヤー1」と「パシフィック・リム:アップライジング」という超級エンタメ映画がほぼ同時期に公開され、うかうかしていると新しいアベンジャーズも始まるしもう大変だということで慌てふためいて2作を劇場でウォッチしてきた。
レディプレイヤー1はスピルバーグちょっとなめてましたすいませんという圧倒的楽しさにひれ伏したし、パシフィックリムも続編どうなの?って賛否両論はあったが実際観てみるとエヴァ的なロボットとバイオロジーの組み合わせってやっぱ最高だなという満足感でいっぱい。
それで満足して飯食って寝ればよかったのだが、映画を観終えた後その2作の共通点に関して色々と考えてしまった。その考えたことについて以下に記す。
この2作、どちらも日本のポップカルチャーをフィーチャーしているのはもちろんそうなのだが、そういう表面的なところ以外で言うとまず舞台が未来のディストピア世界であること。そして、そのディストピア世界における崩壊の窮地を救うのが、「社会の枠からこぼれおちている」側の人間であるということが共通している。
パシフィック・リム:アップライジングは、前作から10年後の世界。怪獣によって半壊状態の後その復興の最中、いつまた怪獣が出てくるかもわからないディストピア。かたや、レディプレイヤー1では、格差が拡大し、問題解決を人々が放棄した世界でVRゲームに人々が現実逃避を求めるというディストピアが描かれている。
その両方の世界で、悪として描かれるのは、どちらも大企業。金にものを言わせて全体主義的な思想でディストピア世界に新たな秩序をもたらし世界の覇権を得ようとしている。その中で、大企業による全体主義的世界の出現に誰よりもNOを突き付けるのは、いわゆる「社会の枠からこぼれおちた」側の人間だ。
パシフィック・リムでは、軍隊からドロップアウトしてドヤ街でコソ泥やって身銭を稼ぐ男(ジョン・ボイエガの天性のボンクラ感が最高)、ドヤ街でスクラップ集めて違法ロボットつくる少女といったアウトローな存在が、結果的に、非常事態を救うキーパーソンとなる。レディプレイヤー1では、ポップカルチャーの理解者であり中毒者、つまりオタクたちが、仮想世界に隠された謎を解明して世界が大企業の悪夢的支配によって堕落するのを阻止するフロントランナーとして活躍する。
どちらの作品も、オタク的気質のある監督による作品だからそうなっている、といえばそれまでなのだが、それ以上に、ディストピアにおいては「枠から外れた者」こそがその窮地をひっくり返す存在になるという繰り返し紡がれてきた普遍的なストーリーを紡いでいると言える。
近年の作品では、シンゴジラ(2016)においても、窮地を救ったのはアウトローであり王道からは外れた人たちの叡智の結集であったように思う。また、ガーディンアンズオブギャラクシー(2014)のカタルシスは、宇宙のならずものが宇宙を救うというそのどんでんがえしにあったように思う。
安定した社会、秩序が保たれた社会では、その安定と秩序を維持するのに貢献する官僚的な素質をもった人間が重宝される。しかし、ディストピアにおける「どんづまりの緊急事態」においては、官僚的素質の人間というのはもっとも役に立たず、悪影響ですらある。それについては、軍部の無責任を問う多くの戦争映画などでも繰り返し描かれている。
枠からはみ出ている者は、一般的な感覚では感知しないような感性のアンテナで、ブレイクスルーのきっかけとなるなにかを拾い上げる。「レディプレイヤー1」と「パシフィック・リム:アップライジング」の2作品は、そのような繰り返し紡がれてきたテーマを最新形の超エンタメ映像でもってこの2018年に広く世に提示している。
そこから汲むことのできるメッセージは、とにかく好きなことをしろ。枠にはまる必要はない。不安定な社会においてはなおさらだ、というもの。なんだかスティーブジョブズの「ステイハングリー、ステイフーリッシュ」のスピーチみたいな話だが。
枠からはみ出すことの肯定は、オタク的な生き方の肯定でもあり、多様性の尊重でもある。
この2018年の日本がある種のディストピアであるとして、そこで選択すべきライフスタイルは官僚的な枠にはまることや大勢に迎合することではなく、好きなことの追求やある意味天の邪鬼な精神ではないか。
変人であること社会不適合であることが「秩序を失いつつありその秩序が悪夢的な全体主義的秩序にとってかわられようとしている社会」を救うことになるというストーリーを描くこのレディプレイヤー1とパシフィック・リム:アップライジング。2018年の日本の劇場に同時期に現れたこの2つの巨星のその輝きは、ただ何も考えず観るもよし、色々考えて観るとなおのこと、より立体的に堪能できるのではないか。
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