2018年5月3日、小沢健二の武道館ライブ「春の空気に虹をかけ」に行ってきた。感無量、素晴らしい体験だった。
最初から最後まで当然のように出ずっぱりの満島ひかりを含む36人編成ファンク交響楽が生みだすグルーヴと、新旧多様な楽曲を我が歌のごとく熱唱するオーディエンスの熱気とあわさり、会場には異様なハイな空気が充満していた。
小沢健二の言葉は強い。今回のライブでも、小沢健二は、観客に「一緒に歌うこと」を求めた。それは小沢健二の楽曲の歌詞が歌詞である以上に力強い詩であるからなのだと思っている。歌詞カードなど見なくても多くの観客が歌っていた。それは90年代の「懐メロ」だからではない。最近の曲でさえ、そうだったのだから。
ライブの中でも、「ある光」から「流動体について」の流れは本当に秀逸だった。小沢健二が日本の世間から消えてしまった時の歌である「ある光」、そして、帰ってきた時の歌である「流動体について」。その時々の心情が赤裸々すぎるほどに込められた二曲が歌われるときに立ち上がる物語、18年間の豊かな「空白」を経て紡がれるそのダイナミズムに、感動を抑えられなかった。
「コミュニケーションの根幹は沈黙である」と吉本隆明は言った。29歳で日本の世間から姿を消し、18年後に戻ってきた小沢健二。その沈黙の間、彼の中で積み重ねられた思考、その芳醇なコミュニケーションの蓄積が、90年代の代表曲にも最近の曲にも深みを与え、エネルギーを爆発させていた。
昨年リリースした、「フクロウの声が聞こえる」という曲。本編でも、まさかのダブルアンコールでも演奏していた。
芽生えることと朽ちること
真空管を燃やすギターの音
残酷さと慈悲が一緒にある世界へ
ベーコンとイチゴジャムが一緒にある世界へ
ここのバースを、何度も繰り返し、なんだかすごいグルーヴが生み出されていた。まさに、日常の裂け目(スリット)にあらわれた非日常がそこにあった。
本編の最初と最後を挟み込むように演奏された曲が「アルペジオ」だった。岡崎京子原作の映画「リバーズ・エッジ」の主題歌になっている曲。その中で、「僕ら」と歌われる時、それは小沢健二と満島ひかりと36人編成ファンク交響楽であるし、また、彼らとオーディエンスであるし、そして、どうしても、岡崎京子のことを意識せざるを得なかった。あまりにも赤裸々で個人的で普遍的な歌。
最後に小沢健二は「そして、生活に戻ろう」と言って幕を閉じた。日常の裂け目から一瞬だけ顔をみせる非日常、裂け目としてのライブ空間。ライブで熱狂したオーディエンスも、ライブが終われば何事もなかったかのように散らばり、大衆の中に溶けていく。生活に戻る。あっさりと。
しかし、小沢健二は伝えている、日常にこそ、生活の中にこそ、大切なことがたくさんある、と。ベーコンとイチゴジャムが一緒にある世界へと進み、その世界を生きる生活の中に。
小沢健二の言葉は、まるで危険思想のように人々に埋め込まれて、日常の行動を変えていく。「意志は言葉を変え、言葉は都市を変えていく」。日常の、裂け目に現れた非日常のライブ空間での熱狂、そこから日常に戻り、大衆にまきこまれ、それで何事もなかったように変わらぬ日常が続いていく、わけではない。それぞれの日常での意識的、無意識的での行動の変化が、都市を変えていく。
「意志は言葉を変え、言葉は都市を変えていく」、躍動する流動体そのもののようなライブであり、体験だった。
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