映画「検察側の罪人」を観てきた。

先週、映画の日に、映画館で、検察側の罪人を観てきた。

とても良い映画だった。そして、作品について語りたくなる映画だった。なので、少しここに書きたい。

検察側の罪人(2018)。原田眞人監督、脚本。木村拓也演じるベテラン検事の最上(もがみ)、二宮和也演じる駆け出しの検事である沖野。そして吉高由里子演じる検察事務官の橘。ある殺人事件の聴取を進める中で、それぞれが信じる正しさがぶつかり合い、すれ違っていく。明らかになっていくそれぞれの人物の裏の顔。サスペンスが終始途切れず進む。切れ味するどい細かいカット割りのテンポの良い編集でぐいぐい引き込まれる。

真実を明らかにすることに法の正義を求める沖野に対し、最上は「真実よりもストーリー」というリアリズムを主張する。クリーンな手続きで、真実を追求していくような、そんな「なまくらな正義の剣」では、裁かれるべき悪も裁けない、と。

その最上のリアリズムは、必然的に彼を法的に危うい世界へと踏み込ませることになる。それは、Netflixドラマのベターコールソウルにおいてジミーが話術と法の知識で合法と非合法の綱渡りを見せるスリリングさにも通じるが、最上のそれはよりダークで重い印象を与える。なによりもそれは、最上は実際に、明確に、ある時点で「あっち側」にズブズブと足を踏み入れてしまうからに他ならない。

なぜ最上がそのような信念を抱くようになったのかが紐解かれていくに従い、日本の司法の「正義」としての機能不全があぶり出される。昨年公開の是枝監督による「3度目の殺人」の中での「誰が誰を裁くのか、それは誰が決めるのか」というセリフが思い出される。

最上の取る行動は、いわゆる「リベンジ映画」の中で行われていることと実際的には同じであるが、しかし、世間一般の復讐譚にあるようなカタルシスは皆無である。この映画にはわかりやすい勧善懲悪はない。HEROは存在しない。木村拓也がかつて月9のドラマで演じたような検事は描かれない。

最上は善悪入り混じった存在であり、絶対的な強さを持っているわけでもない。俳優、木村拓哉として、原田眞人監督の作品の中でみせたその「顔」は、いままでのキムタクが見せたことのないものであり、最上という人間の複雑さ、不穏さを体現し、とても魅力的なものだった。

かつてタマフルでのスポーツマン山田評ではケビンスペイシーという隠語で語られた木村拓哉だったが、今回の検察側の罪人ではまさにハウスオブカードでのあのケビンスペイシーを彷彿とさせるような、深みがあり不穏で危険な匂いがするくせ者を演じ切っている。

インパール作戦のエピソードや日本の中枢部へと食い込む極右勢力の様子が印象的に挿し込まれ、現状の日本社会への警鐘のトーンも色濃い。

真実こそ正義だと信じる沖野に対して放つ「俺の正義の剣を奪うことがそんなに大事か」という最上の言葉、そしてあのラストシーンが、映画を見終えた後も脳裏に焼きつきぐるぐると思考を促して止まらない。

検察側の罪人、濃厚でヘビーな見応えたっぷりずどんとくる社会派ドラマ。このような作品にキムタクが出て、そしてそのことによって作品が素晴らしい出来になっているという事実に、映画ファンとして胸が熱くならずにはいられない。

 

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映画、音楽、本のことを中心に、役に立つかどうか度外視して書きたいこと書こうと思っています。サブカルなイベントもよく行くので、そのレポートみたいなことも書くかもしれません。