暗闇でオフラインで浸るべき鮮明なるノスタルジー。Netflixでアルフォンソ・キュアロンの「ROMA」を観た。その感想。

アカデミー賞も終わり、3月だ。

季節はゆるやかにはじまり、ゆるやかに終わっていく。

3月ももう終わりそうなくらい毎日がただ過ぎていく。

へっこらよっこらと、アカデミー賞でも話題になった作品、ROMAを、Netflixで観たわけだ。

◆スタッフ、基本的な情報

監督は、アルフォンソ・キュアロン。ゼロ・グラビティ(2013)以来の監督作。脚本、そして、撮影もアルフォンソ・キュアロン自身が行っている。配給はNetflix。上映時間135分。アルフォンソ・キュアロンの自伝的な作品であり、90%以上のシーンが、キュアロンの記憶にもとづいているシーンだという。映画初出演で初主演のヤリーツァ・アパリシオは家政婦のクレアを演じ、一家の母ソフィア役を、マリーナ・デ・タビラが演じ、子どもたちのトーニョ、ソフィ、パコ、ペペはそれぞれ、ディエゴ・コルティナ・アウトレイ、ダニエラ・デメサ、カルロス・ペラルタ、マルコ・グラフによって演じられている。一家の父親役のアントニオはフェルナンド・グレディアガ、クレアと異性交遊に及ぶ青年フェルミンは、ホルヘ・アントニオ・ゲレーロが演じている。

今回のアカデミー賞で、ROMAは、撮影賞、監督賞、外国語映画賞を取った。

ちなみに、この6年間で、メキシコの監督がアカデミー監督賞を取ったのはこれで5度目。
2017年ギレルモデルトロ、2015年アレハンドロイニャリトゥ、2014年アレハンドロイニャリトゥ、2013年アルフォンソキュアロン。

◆Netflix 製作であること

2017年、カンヌはNetflix、その他のストリーミングだけで公開され、劇場で公開となっていない映画を、選考対象から外した。2018年、Netflixはカンヌをボイコットし、ROMAはベネチア映画祭へ。

キュアロンがNetflixでの本作の配信を踏み切ったのにはいくつか理由があろうが、その中の一つとして、外国語映画の配給というのは通常、劇場においてそこまで十分ではなく、Netflixでの配信なら、より広く行きわたるであろうという意図があった。

アカデミー賞で作品賞と監督賞の両方にノミネートされた、最初のNetflix配信のみ、劇場公開なし、の映画になる。

◆あらすじ

1970年代、メキシコシティのコロニア・ローマで暮らすとある家族と、そこに仕える家政婦クレア。彼らの身の回りに起こる出来事が、モノクロの映像、風景を客観視するような引きの構図で映し出されていく。家族の中の子どものうちの一人、パコは、幼少期のアルフォンソ・キュアロン自身。

◆なぜROMAというタイトル?

本作の舞台となっているROMAというのは、メキシコシティにあるコロニア・ローマというエリアのことを指す。その地域は1970年代当時、リッチな人、貧しい人で格差が激しく、それらの人々が混在して暮らしていた。イタリアのローマとは関係ない。

◆撮影

アカデミー賞で撮影賞も受賞した、アルフォンソ・キュアロン自身による撮影。絵画的で美しい構図で、70年代のメキシコの様子を映し出していくカメラ。 全体的に引きのショットで、客観的な視点で一家が暮らす家、家政婦の住み込みのスペース、街並みが映し出されていく。光源の位置、ライティングの感じ、全てが美しい。

日常のなんでもない風景が絵画的に、詩的に切り取られた様子は、記憶の断片を取りだしてそのまま映像にしたかのようで、どこか超現実然とした印象を与える。この映画で映し出される1970年のメキシコシティ、ローマ・コロニアは、現実なんだけど、現実ではない、アルフォンソ・キュアロンの記憶の中にしか存在しない世界。そして、それは、観る者にそれぞれの記憶の中にしか存在しない世界を想起させる。

どこまでも個人的な記憶に基づく映像は、受け手それぞれの個人的な記憶を刺激し、感情を揺さぶるという点で、個人的であると同時に、暴力的なまでに普遍的だ。そんなことを思わせる映像。

◆飛行機

冒頭、石のタイルに洗剤溶液のまざった水がまかれる様子の、真上からのショット。その水の鏡面に、小さく、飛行機が映り込んでいるのが見える。

そう、飛行機。この映画のなかでは、飛行機が象徴的に、いくつかの場面で使われている。

クレアと男女の関係になる男、ホルヘ・アントニオ・ゲレーロ演じるフェルミン。クレアとフェルミンが映画館で映画を観るシーン。フェルミンがクレアの妊娠を知り、劇場を逃げ出す時、スクリーンに映っているのは飛行機。

飛行機によって示唆される、当人たちが置かれている外にある、より広い世界の存在。

キュアロンの幼少期、コロニア・ローマでは頻繁に空に飛行機が飛んでいたという。

◆車

一家の父親アントニオが、煙草を薫せ音楽を流しながら、やたらとせまいスペースへ駐車する、優雅なのだか窮屈なのだかよくわからない印象的なシーンがある。当人はかっこよく駐車をしているつもりだろうが、タイヤは犬のフンを踏む。その後のアントニオの行動を考えると、車は自由、外の世界へと行動することの象徴であり、それが窮屈なスペースに収まっているのは、男にとっての自由の束縛を表している。

妻のソフィアのほうは、小型の取り回しがいい自動車を選ぶ。狭いスペースに子どもをみんな乗せて運転する。

「男」にとっての自由、解放の象徴としての車。「女」にとっての実用、生活の手段としての車。

◆滑稽な男らしさ

クレアといい感じになる男、フェルミンが、俺は武道をやっているんだと言って、なぜか全裸で、棒を振り回すシーンがある。股間の部分がモロにぼかしなしで写っているため、まさに2本の棒回しパフォーマンスとなっている。

表面的な男らしさ、マスキュリ二ティを滑稽に映し出す。

拳銃、暴動。そういったものへの関わりもそう。

その後のフェルミンのとる、男らしくない無責任な行動を考えると、いかに表面的な男らしさが滑稽で馬鹿馬鹿しいか示されている。

◆女たち

象徴的にドアや壁で仕切られて映し出されるクレアの側の人々の世界と、上流階級の白人たちの世界。主人の家のばあさんは、クレアの誕生日も本名もロクにしらない。一緒に住んでるのに。

しかし、クレアもソフィアも、それぞれ、無責任な男によって翻弄され、ひどい目に合い、そのことを通じて、主人と召使いという関係を超えてわかりあう。

このROMAは、社会階層が異なる2人の女性が、どちらも理不尽な男性の被害に遭い、階層を超えてわかりあう話なのだ。

ソフィアの放つ「なんと言われようと私たち女性はいまも孤独」というセリフが印象的。

◆海

終盤の海のシーン、どうやって撮ったんだこれ!っていうくらい、ドキッとする。海に流される子供たち。本当に溺れているようにしか見えない。

海によってあの世へ連れて行かれそうな子どもたちを、クレオがひきもどす。
それは、クレオが、自らの経験した「死」のかわりに、なんとか命をこちら側に繋ぎとめようとするかのような切実さでもって迫ってくる。

生と死が関わるところには「水」が出てくる。

◆で、どうなのかこの映画。

記憶の断片の再現のようなノスタルジーに満ちていながらも、細部まで鮮明な、クールな映像。自分とは関係ない家族の話なのに、なんか懐かしい。画面に映り込む細かい物事にまで意識をめぐらし、音に耳を傾け、まさに映画館の暗闇でじっくり体験してこそ、真に堪能できる映画。この映画そのものが、大切な記憶となるかのような作品。

やっぱり、映画館で観たいね、こういう映画は。

魂の救済は映画を観る行為の中にある。

 

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映画、音楽、本のことを中心に、役に立つかどうか度外視して書きたいこと書こうと思っています。サブカルなイベントもよく行くので、そのレポートみたいなことも書くかもしれません。