僕たちはカップヌードルになれなかった。

毎日弁当を作って会社に持っていっている。

節約のためというよりは、日常に句読点を打つ行為に近い。瞑想に近い。
心を無にして、卵を焼く。

弁当を持っていってはいるのだが、なんとなく心寂しく、昼休みになるとコンビニのカップ麺のコーナーに気づけば足が向かっている。 弁当プラス、日替わりで、いろいろなカップ麺を食べている。

日々、コンビニのカップ麺コーナーを眺めていると、各社の勢力争いが見えてきて面白い。

各社、健康志向、ガテン系がっつり志向、名店の味での話題性志向など、それぞれの戦略のもと、カップ麺売り場の陣地を拡大しようと頑張っている一方、絶対的な王者、日清のカップヌードルは、その揺るがぬ王位ゆえか、攻めたテイストのヌードルを数多く打ち出している。

カップヌードル メキシカンタコス味、という、ナメたテイストのヌードルもあった。

そして、メキシカンタコス味は、そこそこうまかった。 どんな味でも、カップヌードルというプラットフォームに載せられれば、そこそこうまいものになる。そんな信頼感は、強まるばかりだ。

安定した基盤があるから、冒険できる、チャレンジできる。

その冒険やチャレンジはさらなるブレイクスルーにつながり、安定した基盤はより一層安定していくという好循環。運気はうなぎのぼり。

カップヌードルはすごい。

しかし、カップヌードルにはなれなかった、数ヶ月後には消えていくだろう、カップ麺コーナーのマイナーなカップ麺たちを見ていると、あぁ、俺はこっち側だ、と思い、心にブルースが影を落とす。

僕たちはカップヌードルになれなかった。

思い切ったことをすることもできず、日々をこなし、なんとかその社会の中で居場所を見つけようと四苦八苦する。

カップヌードルたちは、 なにをしたって、カップヌードルなのだ。 もうどうしたって、カップヌードルにはかなわない。

カップヌードルに近づいてみせようか、あるいは、あえて全く違う方向に振り切ってみせようか。いつだって、価値基準には、カップヌードルがつきまとう。

ただし、カップ麺売り場で戦う限りは。

カップヌードルに勝つための、発想の転換。それは、カップ麺であることから、脱すること。

カップヌードルになれなかった僕らは、カップ麺であることを宿命づけられているカップヌードルよりも、ある意味では、自由で、希望に満ちている。

カップ麺であることをやめれば、なんにだってなれるわけなのだ。

そんなことを考え、今夜も深夜に卵を焼く。

 

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