自粛と無鉄砲野郎

自粛するという言葉を少し噛み砕くと、self restraint 、自制、克己心、という言葉が出てくる。少し乱暴に言い換えれば、自粛しろ、というのは、我慢しろ、ということ。

トイレットペーパーの紙を買いすぎるのは我慢してくれ、とは言えても、トイレに行くのを我慢してくれ、とは、言えない。人の心がある人ならば。

トイレに行くことを自粛していたら、その辺に野グソでもするしかない。生きていくことに必要だからだ。

新型コロナの拡大防止のため、さまざまなことに、自粛、が求められている。ちょっとやばいんで、我慢してくださいよ、と。

しかし、ラーメンを週に5回から1回にしてくださいとか、深夜に部屋で楽器鳴らすのはちょっとやめてとか、そういう我慢とは次元の違う、トイレに行くの我慢してください、レベルの我慢としての、自粛要請がぶちかまされている。

挙げ句の果てが、布マスク二枚の支給。

こんなことしていると、無鉄砲野郎の暴発が危惧される。

10階のモスキート(1983) という映画がある。

監督:崔洋一
脚本:崔洋一、内田裕也
出演: 内田裕也、宮下順子、小泉今日子

交番勤務をまじめに勤めて20年。内田裕也演じる警察官。しかし、離婚し、出世も望めず、消費者金融とギャンブルとでズブズブで首が回らなくなり、時代に遅れまいとして買ったパソコンを夜な夜な学んでミニゲームみたいなのつくる。

人生上向きにさせたかったけども、あれやこれやうまくいかず、なりやまぬ取り立ての電話で、我慢の限界大爆発。走り出し、10階の部屋から、無鉄砲野郎となりクライマックスへと雪崩れ込む。

無鉄砲、それは、抑圧した自我の暴走。

誰のために生きるんだ。なんのために生きるんだ。

俺だって人間だ、というセリフ、が耳に残る。

まじめに納税してたって、いざという時にガーゼマスク二枚の配布、これが現実。

自粛とは我慢であり、自我の抑圧。

暴走しそうな気分を、映画観て鎮め、無鉄砲野郎の顛末を観て、教訓としたい。

そして、選挙に行って、合法的にクソ野郎を引きずり降ろそう。

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映画、音楽、本のことを中心に、役に立つかどうか度外視して書きたいこと書こうと思っています。サブカルなイベントもよく行くので、そのレポートみたいなことも書くかもしれません。