休みの日にぼんやり眺める(実名で使用の)SNSがだんだんと辛い。見なければいいだけなのだろうが、SNSが人口に膾炙した今あえて見ない、という態度が、人一倍その内容から圧を感じてしまっていることの表明になってしまい、あえて見ないようにしても結局、みる、なんとなくつけるテレビのようになんとなくSNSは見る。しかし、なにをそんな圧を感じているのか。それは、おそらく、色々な方々の可視化された、社会的アイデンティティ、に。
どうしたらいいのか。
いわゆる平日に会社員として労働している間は通勤時間も含めて労働に支配されている苦しさはあるが、その時間、自分が何者であるか、どういった目的や役割をこなす主体であるのかが明確なので、自分の社会的アイデンティティについて疑問を抱くこともない。鎖につながれた苦しさは、締め付けがタイトでなければ、やがて慣れる。仕事後のプライベートの時間、という、ひとときの“自由”の時間に、リフレッシュすれば、また鎖に繋がれてもいいや、と思える。楽しいことをするための交換価値ももらえるし。
しかし、休日、特に、大型連休、となると、そのサイクルが乱れる。ふと、自分という存在について朝シャワーを浴びた後コーヒーでも啜ってSNSを開くひとときに、考えてしまったりする。なんの目的、役割のために存在しているのか。
ショーシャンクの空に、という刑務所モノの映画で、何十年も刑務所で刑期を過ごした囚人が、刑務所から解放され自由の身になるも、刑務所の外の世界における自分の身の置きどころや身の振り方に悩み苦しみ自殺してしまうという悲しい場面があった。
フィンランドなどの北欧は社会福祉が充実していて、勤め人も休みを多くとれると聞く。そのほか、欧米人は長期休暇をよくとり、労働生産性の低い愚かな日本人よりライフを充実させていると聞く。しかし、欧米人も、生きづらい、なんなら、うっすらと死にたい、と感じている人は、日本と同じくらいか、それ以上に多いのではないか、という気がしている。欧米の方や欧米に憧憬を抱く日本の方のSNSにあげられているプライベート報告に触れながら思う。
色んな人の可視化された、社会的アイデンティティ、から圧を感じる。何者かにならなくてはならない、と。連休は特に、何者かであるかがぼやけるので、気を抜くと、圧にやられる。
どうしたらいいのか。
それは、好きなことに没頭する、だと思う。何者にもなっていなくてもいい。その客観視を超越して、好きなことをする。社会的アイデンティティのための”好きなこと”ではなく、己の中にある、好きなことだ。それは時に社会と反目するだろう。なので、バランス、人に迷惑をかけない、親切であること、は大切だ。
横尾忠則は、人生の目的は遊び、と言っていた。横尾忠則は超越している。超越している人は存在が社会的アイデンティティだ。落合博満も、超越している。同調や承認を求めない。そのような超人には至れなくても、目指すべきはそこだ。超人に対して社会は賞賛したりするが、超人自身はそんなことはどうでもいいはずだ。
フィンランドといえば、私など比べものにもならないくらい映画が好きなフィンランド出身の友人がいる。彼は北海道にいるがたまに東京に来ては一日に6本くらい名画座等をはしごして帰っていく。彼は結婚もしているが、結婚をしているかどうかが全くわからないくらい映画ばかり観ている。彼は購入したソフトなどを報告してくるが、そこから社会的な圧は感じない。
サウナが流行っているからサウナにいく輩の中に、サウナが流行っていなくても、なんなら忌み嫌われる行為になったとしても、サウナに行く切実さを持った人間がどれくらいいるだろうか。サウナで心の茶を濁しながら、本当に好きなことと向き合えずにいる。獣医になりたい夢があるなら、今すぐこの仕事を辞めて、なりに行け、さもなくば殺す、と映画ファイトクラブでタイラーダーデンが言った(現実では、バランス、人に迷惑をかけない、親切であること、は大切であるが)方向性に同意する。
結婚相談所なんていますぐ解約してしまえ、それは何者かでなければいけない、という圧にやられてしまっているだけ。そんなことより、もっと超越していこう。そう言いたい。
コメントを残す