佐竹に馬鹿にされたままでいいのか。

私は日常的に吉野家をヘビーユースしている。

安いし早いし、失敗がない。

最近は、テイクアウトの牛丼が80円引きになった。

380円でもすでに安いのに、さらに安くするとは何事か。

低コストで最大限の幸せを享受できる店、それが吉野家。素晴らしい。

吉野家は80円引きだが、TOHOシネマズの基本料金が1900円になった。

吉野家にできて、なぜTOHOシネマにはできない、低価格のサービス。

なんとかしてくれ、TOHOシネマズ。

そんなことを思うが、一方で、6年間で74億使われ、具体的になんに使われたのかはブラックボックス、という官房長官が自由にできる官房機密費のニュースにも触れ、80円や100円の値引きや値下げで一喜一憂している自分の滑稽さに苦笑する。

ふぞろいの林檎たち2のどれかのエピソードで、会社の昼休みに定食屋で一番安いお得な定食を柳沢慎吾演じるミノルがうまそうに食べていると、親が金持ちでいけすかない、みのるの大学の後輩の佐竹(水上 功治)が、「先輩、みじめなんでそんな安いもん食わないでくださいよ」みたいに言うシーンがある。

官房長官と官房長官がお金を使う対象の圏内にいるような輩は、300円の牛丼は食わない。TOHOシネマズが1900円になろうが、関係ない。

「先輩、みじめなんでそんな安いもん食わないでくださいよ」というセリフには、エスタブリッシュメントの本音がある。 100円に一喜一憂することは、みじめなことなのだ。馬鹿にしてくれるじゃないか。

そんなことを考えて、吉野家のカウンターで牛丼を食っていると、石田徹也の絵が頭に浮かぶ。

石田徹也の絵に出会ったのは、eastern youthのアルバムのジャケ。その後いろいろほかの絵もみた。

均質化され体制に従った成れの果ての人間の姿をグロテスクに戯画化したその絵は、眺めていると気持ち悪く、居心地が悪くなる。

でもなにかそこには、本当のこと、直視しなければいけないことがあるように思えて、気持ち悪いけれど、ついつい見てしまう。

これでいいのか。佐竹に馬鹿にされたままでいいのか。

石田徹也の絵の中の人間のようにグロテスクに四角いキューブになって生きていていいのか。

魂のゆくえのトラー牧師。タクシードライバーのトラビス。ファイトクラブのタイラーダーデン。映画の中のキャラクターたちが問いかけてくる。

佐竹に馬鹿にされたままでいいのか。菅官房長官をはじめとした輩に馬鹿にされたままでいいのか。

重鈍な6月。梅雨明けは遠い。

 

僕たちはカップヌードルになれなかった。

毎日弁当を作って会社に持っていっている。

節約のためというよりは、日常に句読点を打つ行為に近い。瞑想に近い。
心を無にして、卵を焼く。

弁当を持っていってはいるのだが、なんとなく心寂しく、昼休みになるとコンビニのカップ麺のコーナーに気づけば足が向かっている。 弁当プラス、日替わりで、いろいろなカップ麺を食べている。

日々、コンビニのカップ麺コーナーを眺めていると、各社の勢力争いが見えてきて面白い。

各社、健康志向、ガテン系がっつり志向、名店の味での話題性志向など、それぞれの戦略のもと、カップ麺売り場の陣地を拡大しようと頑張っている一方、絶対的な王者、日清のカップヌードルは、その揺るがぬ王位ゆえか、攻めたテイストのヌードルを数多く打ち出している。

カップヌードル メキシカンタコス味、という、ナメたテイストのヌードルもあった。

そして、メキシカンタコス味は、そこそこうまかった。 どんな味でも、カップヌードルというプラットフォームに載せられれば、そこそこうまいものになる。そんな信頼感は、強まるばかりだ。

安定した基盤があるから、冒険できる、チャレンジできる。

その冒険やチャレンジはさらなるブレイクスルーにつながり、安定した基盤はより一層安定していくという好循環。運気はうなぎのぼり。

カップヌードルはすごい。

しかし、カップヌードルにはなれなかった、数ヶ月後には消えていくだろう、カップ麺コーナーのマイナーなカップ麺たちを見ていると、あぁ、俺はこっち側だ、と思い、心にブルースが影を落とす。

僕たちはカップヌードルになれなかった。

思い切ったことをすることもできず、日々をこなし、なんとかその社会の中で居場所を見つけようと四苦八苦する。

カップヌードルたちは、 なにをしたって、カップヌードルなのだ。 もうどうしたって、カップヌードルにはかなわない。

カップヌードルに近づいてみせようか、あるいは、あえて全く違う方向に振り切ってみせようか。いつだって、価値基準には、カップヌードルがつきまとう。

ただし、カップ麺売り場で戦う限りは。

カップヌードルに勝つための、発想の転換。それは、カップ麺であることから、脱すること。

カップヌードルになれなかった僕らは、カップ麺であることを宿命づけられているカップヌードルよりも、ある意味では、自由で、希望に満ちている。

カップ麺であることをやめれば、なんにだってなれるわけなのだ。

そんなことを考え、今夜も深夜に卵を焼く。